日蓮 最初の弟子、日蓮より年長で、長老として崇められ、日蓮からの書状も多い。 鎌倉浜の日昭坊舎(草庵)は、1280年に日蓮から「曼荼羅本尊」(伝法御本尊・静岡妙法華 寺)を授けられて開堂(法華堂)した。 浜土法華堂は同7年、法華寺と称す。 日昭は信濃の武将 風間信昭の帰依を得て1306年、相模の那瀬妙法寺の開山に、 1307年、越後妙法寺の請待開山に招かれた。 門流を日昭門流、又は浜門流と称する。 法華寺はのち伊豆玉沢に移り、ここから玉沢門流が発展する。 遺品と真筆は多く玉沢法華寺に伝わる。 | |
日朗は日昭の甥と伝える。 日蓮最愛の弟子で、師孝第一と称される。 日蓮に常に随街して幾つかの法難に遭った。 入滅に先立って 鎌倉名越と比企ケ谷の法華堂(妙本寺)を付託された。 日蓮から『三個の霊宝』(随身仏の釈迦立像・「立正安国論」・伊豆龍口佐渡方難 赦免状3通)をゆずられた。 日朗ゆかりの寺…鎌倉妙本寺・池上本門寺・平賀本土寺・松葉谷草庵・名越法華堂 門流を朗門・比企ケ谷門流(のち池上門流)と称し、日蓮最大の門流となる。 主な弟子…日像・日輪・日善などがいる。 | |
日興は弁論・文筆の第一と称される。 富士を中心とした駿河を拠点とし、身延入山後の日蓮が最も頼りにした。 富士郡に「本門寺」と「大石寺」を建立、地域の教化と門弟教育にあたった。 日蓮に習って、弟子を選び、まず本六人、のち新六人を定めた。 その門流を興門・富士門流なとと称した。 | |
論議第一と称され、著書は『金剛集』をはじめ多い。 身延輪番制廃止後、祖廟を守り、のち上総(千葉県)藻原寺に隠居。 門流は身延門流・藻原門流と称する。 | |
日蓮の教義をよく理解し、『観心本尊抄』などを日蓮から授けられ、日蓮没後は出家 して日常と称し、中山門流の祖となつた。 下総の法華経寺・弘法寺・日本寺に係わっている。 | |
日頂は下総(千葉県)を富木常忍(日常)と教化し、駿河では日常のもとで教線を 拡大した。 真間弘法寺を天台宗から改宗して発展の基礎をつくった。 のち、常忍と対立して下総を去った。 門流は形成されなかった。 | |
六老僧の中で最も遅い入門である。 駿河を根拠とし、蓮永寺の開山となる。 宗祖七回忌に池上本門寺の祖師像を造立したことが特筆される。 永仁二年(1294年)に宗祖の十三回忌法要をすませ、 翌年正月、海外弘通を志して旅たった。 中国大陸で活躍したという伝説はあるが、国内の門流はない。 | |
他にも …
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人物紹介】は 出展;「『鎌倉仏教』図解 日本の仏教 四」(三山 進責任編集)新潮社出版による |