日 蓮 聖 人 弟 子 門 流 系 図 


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【 六 老 僧 紹 介 】
日 昭 上 人 (にっしょう しょうにん)      1221〜1321(承久3〜元享元年)

 日蓮 最初の弟子、日蓮より年長で、長老として崇められ、日蓮からの書状も多い。
 鎌倉浜の日昭坊舎(草庵)は、1280年に日蓮から「曼荼羅本尊」(伝法御本尊・静岡妙法華
  寺
)を授けられて開堂(法華堂)した。 浜土法華堂は同7年、法華寺と称す。
 
 日昭は信濃の武将 風間信昭の帰依を得て1306年、相模の那瀬妙法寺の開山に、
 1307年、越後妙法寺の請待開山に招かれた。
 門流を日昭門流、又は浜門流と称する。
 法華寺はのち伊豆玉沢に移り、ここから玉沢門流が発展する。
  遺品と真筆は多く玉沢法華寺に伝わる。
 

日 朗 上 人 (にちろう しょうにん)      1245〜1320(寛元元〜元応2年)

 日朗は日昭の甥と伝える。
 日蓮最愛の弟子で、師孝第一と称される。
 日蓮に常に随街して幾つかの法難に遭った。
 入滅に先立って 鎌倉名越と比企ケ谷の法華堂(妙本寺)を付託された。
 日蓮から『三個の霊宝』(随身仏の釈迦立像・「立正安国論」・伊豆龍口佐渡方難
 赦免状3通)をゆずられた。
 日朗ゆかりの寺…鎌倉妙本寺・池上本門寺・平賀本土寺・松葉谷草庵・名越法華堂
 門流を朗門・比企ケ谷門流(のち池上門流)と称し、日蓮最大の門流となる。
 主な弟子…日像・日輪・日善などがいる。

日 興 上 人 (にっこう しょうにん)      1246〜1333(寛元4〜元弘元年)


 日興は弁論・文筆の第一と称される。
 富士を中心とした駿河を拠点とし、身延入山後の日蓮が最も頼りにした。
 富士郡に「本門寺」と「大石寺」を建立、地域の教化と門弟教育にあたった。
 日蓮に習って、弟子を選び、まず本六人、のち新六人を定めた。
 その門流を興門・富士門流なとと称した。
 
 

日 向 上 人 (にこう しょうにん)      1253〜1314(建長5〜正和3年)


 論議第一と称され、著書は『金剛集』をはじめ多い。
 身延輪番制廃止後、祖廟を守り、のち上総(千葉県)藻原寺そうげんじに隠居。
 門流は身延門流・藻原門流と称する。
 
 
 

日 常 上 人 (にちじょう しょうにん) (富木常忍ときじょうにん)   □□□〜□□□(□□〜□□年)

 日蓮の教義をよく理解し、『観心本尊抄』などを日蓮から授けられ、日蓮没後は出家
 して日常と称し、中山門流の祖となつた。
 下総の法華経寺・弘法寺・日本寺にちほんじに係わっている。

日 頂 上 人 (にっちょう しょうにん))      1252〜1317(建長4〜文保元年)


 日頂は下総(千葉県)を富木常忍ときじょうにん(日常)と教化し、駿河では日常のもとで教線を
 拡大した。
 真間弘法寺ままぐぼうじを天台宗から改宗して発展の基礎をつくった。
 のち、常忍と対立して下総を去った。
 門流は形成されなかった。
 
 

日 持 上 人 (にちじ しょうにん))      1250〜  ? (建長2〜 ? 年)

 六老僧の中で最も遅い入門である。
 駿河を根拠とし、蓮永寺の開山となる。
 宗祖七回忌に池上本門寺の祖師像を造立したことが特筆される。
 永仁二年(1294年)に宗祖の十三回忌法要をすませ、
 翌年正月、海外弘通を志して旅たった。
 中国大陸で活躍したという伝説はあるが、国内の門流はない。
 
 
他にも …   
瀧口法難に生命を賭けて随従した四条金吾頼基しじょうきんごよりもと
、  
鎌倉妙本寺に係わる大学三郎比企能本ひきよしもと
 
中山法華経寺の基となる堂を建てた太田乗明おおたじょうみょう
 
本土寺の基を築く曾谷教信そやきょうしん
 
佐渡流罪を赦免された日蓮を自らの領地の身延に招いた波木井(南部)実長
 
富士大石寺を創建した南条時光なんじょうときみつ
 
本門寺の池上宗仲いけがみむねなか     など多数おり、
 
女性信者も有力檀越の妻や娘を中心に数知れない。
 
人物紹介】は 出展;「『鎌倉仏教』図解 日本の仏教 四」(三山 進責任編集)新潮社出版による        

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