日蓮聖人草庵址 (nichiren-souan-ato)の石碑文の説明


☆ 日蓮聖人草庵址 の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   建長五年(1253年)、日蓮聖人が房州(千葉県)小港より鎌倉に来て、此の地に小さな庵を建てた。

      此処で 初めて 【法華経」の経典を唱えた。

   正嘉元年(1257年)から文応元年(1260年)の間、
   巌窟内に籠って『立正安国論』 一巻を編述したのは、此の所である と言う。

        昭和十四年三月 建

                              鎌 倉 町 青 年 団



 
【 石碑文の説明 】

第一章 どうして鎌倉入りいたか、  松葉ケ谷の何処に草庵結んだか 

 【初めて 【法華経」の経典を唱えた。】
  【 第T節 】 立宗当日に法難 …そして 東条郷を追われる …
  1. 日蓮は、(日蓮の生誕・その後の修業については、 ⇒ 「日蓮略年譜」 をご覧下さい。 ) 建長五年四月二十八日、

  2. 永年に亘る修業と研鑚の結果、既成仏教と決別し、 清澄山の山頂の「旭日ケ森」に立ち、立宗を決意した。

  3. 此の頃は、既成仏教の他に、支配階級に禅宗が、庶民の間には浄土宗 等々が勢力を張っていた。
     説法の最初の日より、師の道善房どうぜんぼうをはじめ集まった念仏信者の多年に亘る信仰を攻撃的に否定したので、
     此の地方の信者をはじめ、東条郷の地頭の東条景信の怒りをかってしまった。

  4. しかし、師の道善房は愛弟子を救うべく、急ぎ 浄顕 ・ 義浄 の二人の弟子を付け、間道より下山させ、
     東条氏の領外である西条郷華房村の 青 蓮 房 に避難させた。

  5. この 立宗宣言の日、是生房蓮長ぜしょうぼうれんちょうを改め 「 日 蓮 」 と名乗った。
       日蓮の幼名は 善 日 麿 でんにちまろという。
       (改名の由来)
       日蓮の「」は、法華経の第21章、如来神力品の偈文にある 『 如日火明、能除諸幽冥 』 の文、 
            「」は、法華経の第15章、従地涌出品の中にある 『 不染世間法蓮華在水 』からそれぞれ採ったものである。
  6. また、父には 「 妙 日 」 、母には 「 妙 蓮 」 という法号を授けている。
  【 第U節 】 鎌倉入り …そして 松葉ケ谷に草庵を結ぶ …
  1. 建長五年(1253年)、故郷を追われた日蓮 (33歳) は、房総半島の西海岸に出て、南無谷(富浦町)を船出し、

  2.  三浦半島の米ケ浜(横須賀市)に渡り、浦賀道を経て名越切通から鎌倉に入ったと云われている。
     葉山郷古庭の高祖村・高祖坂、今の本円寺附近で数日間逗留し、久野谷村の北、山王堂附近の岩窟
     に着いたのは五月末か六月中旬の頃と云われている。

       当時の鎌倉の世情 …
      * 当時、鎌倉幕府の実権は5代執権北條時頼で、後嵯峨上皇の第一皇子宗尊親王を第六代将軍に迎え、
        北條氏の独裁体制が進行している時代である。
      * 仏教は、奈良時代の六宗(倶舎宗・成実宗・三輪宗・法相宗・華厳宗・律宗)が、それに平安時代の天台宗・真言宗・
        加えて鎌倉時代に入り、念仏と禅が起こって、十宗に達していた。
        時頼は当時、熱烈な禅宗の信奉者で、日蓮の入鎌倉の前年に建長寺を創建し、晩年には真言律宗に帰依している。
        さいわい、念仏宗は時頼の世には禁止の対象外になっていた。

  3. 鎌倉入りした日蓮は、名越の松葉ケ谷に草庵を結ばれた。

  4.     * 日蓮が、草庵を名越の松葉ケ谷の地を選定したのは、…
         日蓮が、当時北條本流から冷遇されていた、名越家と懇意であったからであろう。
         名越家は北條泰時の弟の朝時が分家して名越に屋敷を構えていた。  名越家の領地が房州・東条郷にあり
         地頭の東条景信との間で訴訟が起った時、日蓮が、未亡人に助援し勝訴したという経緯がある。

  5. 松葉ケ谷に草庵は、日蓮が建長五年(1353年)、鎌倉入りをして以来、文永八年(1271年)佐渡流罪まで、

  6.   (伊豆の三年間を除いて)約十五年間、居住した処である。

  7. 日蓮の鎌倉での『 草庵跡 (松葉ケ谷) 』と唱えている三つの寺…

  8.       (1) 
    『妙法寺』     (2) 『安国論寺』     (3) 『長勝寺』  がある。

  9. 実際に日蓮聖人が居住した草庵は、三寺のうち何処かとの色々先人は考証してきたが…、

  10. 草庵跡は、名越松葉ケ谷の安国論寺か妙法寺の可能性が濃く、長勝寺の線は薄と云われている。
    日蓮聖人が居住した草庵は、現在では、 二箇所あったと指定されている。  
    其の一つは『 安国論寺 』の場所で、 他の一つは『 妙法寺の寺域 』であろう と。
    日蓮聖人が建長5年8月、鎌倉に入られて『立正安国論』を執筆され、文応元年8月27日、松葉ケ谷の法難
    に遭われるまでは、比較的当時の道路にも近く、広い庭をもつ、平坦で便利な『安国論寺』の場所に草庵を結び
    伊豆御赦免後は、多くの暴徒が一度に攻め寄せることの難しい、『妙法寺裏山山腹』の場に草庵を営まれた。
【鎌倉での日蓮草庵】は 出展;「鎌倉と日蓮大聖人」(鎌倉遺跡研究会著)・新人物往来社発行 
          並びに「鎌倉の弘法者」(清田義英著)・敬文堂発行 等 を参考にする
     

  T O P  「日蓮略年譜」へ戻る

第二章 「立正安国論」 の 上呈    … 著作の動機 & 趣旨 …

文応元年(1260年)7月16日、日蓮は宿屋左衛門尉光則を通じて、執権・北條時頼に「立正安国論」を提出した。
(日蓮39歳の時である。)

【 第T節 】 「立正安国論」作成の 動機は …   当時の世情 …
     


 「鎌倉災害年表」参照         
  1. 建長8年(1256)春から夏にかけて、雷雨・霖雨が続き、8月に暴風雨の襲来し、死者が多数でる。

  2. 建長8年10月に康元と改号して、以後6年の間、康元ー正嘉ー正元ー文応ー弘長と五度の改号している。

  3. 康元元年11月、北條時頼は赤痢を患い、最明寺で剃髪入道し、執権職を長時に譲る。連署は長時の叔父政村がなる。

  4. 康元2年2月太政官庁焼失・京都に大地震・五条大宮殿炎上により改元後5カ月で3月14日、正嘉と改元する。

  5. 正嘉元年4月に月蝕、5月に日蝕あり、京都に洪水。鎌倉に大地震がおこる。

  6. 正嘉元年6月〜7月は旱魃。

  7. 正嘉元年8月1日鎌倉に大地震が起こった。

  8. 特に康元(正嘉元年)8月23日の鎌倉に前代未聞の大地震起ったことが『吾妻鏡』の記事から伺いしれる。

    飢饉・疫病による餓死・病死するものが絶えなかった世情であった。

  9. 当時の状況を『吾妻鏡』の記録を次の通りである。

  10.          『吾妻鏡』の記事 参照 


  11. 正嘉元年(1257年)、日蓮36歳の時、鎌倉地方の天災地変の多発に疑問を抱き、この疑問を解くべく

  12. 日蓮は駿河岩本の天台宗・実相寺の経蔵に籠ること2年半、その文証を大乗の経典の中に求めた。
  13. 翌年3月に正嘉を正元と改元された。

  14. 正元元年(1259年)、日蓮 (38歳) は『守護国家論』を著わす。 

  15. その趣旨は、一切の災禍の因由を念仏の流行に帰し、是に対して、法華の正法を宣揚いなければならないと主張する。

  16.  翌年名越の庵室に帰来し、文応元年(1260年)7月16日、 日蓮 (39歳) は 『立正安国論』と名付ける、

  17. 国家諫暁かんぎょう勘文かんぶんを作成し、時の執権 北條時頼に上呈する(一回目の諫暁)。

    「近年より近日に至るまで、天変地変・飢饉疫癘、遍く天下に満、広く地上に蔓延る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。

    死わ招くの輩、既に大半に越え、之を悲しまざる族、敢えて一人もなし」 と述べる。


【 第U節 】 「立正安国論」の 要旨は … 

政権担当者を初め、すべての民衆が正法を信じないで、仏説に背いた教え、念仏などを行うので、

諸天善神が怒り、この国を捨て、代わりに悪魔が入り、このため災難が起きている。

今これを改めなければ、これまでに未だ起こって大きな災難が自界叛逆難と他国侵逼難が必ず起こるで

あろう。 と幕府を通じて大衆に警告を発したものである。


   「自界叛逆難」 とは内乱・戦乱のことを云う。

   「内乱」は文永9年(1272年)2月に北條時輔が謀叛を起こしている。

   「他国侵逼難」は他国からの侵略をうけることを云う。

   文永5年及び翌年に 蒙古より国書が到来、文永11年と弘安4年 に蒙古の襲来が起きている。



【 第V節 】 「立正安国論」 の 文章 & 内容 

【文章】
四六駢儷体べんれいたいならって対句ついくを並べ、音韻にも深く注意を払った洗練されたものである。

客人と主人との間の問答体という体裁をとっているが、恐らく評定の席で朗読するように想いを練ったものと思われる。


【内容】
最初は近年の災異に関しての叙述からら始まる。

問 …… 『近年より近日に至るまで、天変地夭・飢饉疫癘、遍く天下に満ち、はびこる。

   牛馬ちまたたおれ、骸骨路に充ちり。死を招くのともがら既に大半に越え、之を悲まざる族敢えて一人も無し。

   ……是何いかなる禍に依り、是何いかなる誤に由るや。』


   これに対する答えは

答 …… 『世人が皆、正に背き、悪に帰したから、善神は国を捨てて相去り、聖人は所を辞して還らず、

   この故に魔や鬼が来て災難が起こったのであるし、

   金光明経の種々災、大集経の三災、仁王経の七難を、薬事経の七難を挙げて文証している。

   この災難を総括すると、三災七難であり、三災とは、飢饉で五穀が騰貴するひと。

   兵革が起こること、疫病が流行することであり、七難とは、薬師経に謂う所によると、

   一に人衆疾疫の難、 二は他国侵逼の難、 三は自界叛逆の難、 四は星宿変怪の難、 五は日月薄蝕の難、

   六は非時風雨の難、 七は過時不雨の難である。


これらの三災・七難の中、正嘉以来の相続く変夭で前の六つは既に現前したから、内証・外患も必ず

くるであろうと暗示し、その原因は、妄りに邪説を信じ正教を弁えぬからであろうと論ずる。

                  《以上上記 【第V節】は「文章・内容」については[大野達之助著(日蓮)]による。》