佐 竹 屋 敷 跡 (satake-yashiki-ato) の 石碑文の説明


☆ 佐竹屋敷跡 の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   この処は、「佐竹四郎秀義」 以来 代々佐竹の屋敷跡である と言う。
   昔 ここに 佐竹氏 の霊社があったが、後年になって、村内の天王社に合祀した。

   後ろの山を 佐竹山 と呼んでいて、その形が扇の地紙に似ている。
   中に三本のさかいがあって、左右あわせると五本骨の扇の形に見える。

        昭和七年三月 建

                                   鎌 倉 町 青 年 団



《ページ内リンク目次》
 ⇒  【人物紹介】 (佐竹隆義佐竹秀義) 
 ⇒  佐 竹 氏 の 略 系 図  
 ⇒  大阪城で発見された 佐 竹 氏 ・ 扇 月 丸 紋  


  (文 説)
【 佐竹屋敷跡ついて 】

佐竹屋敷跡 は、名越大宝寺がある谷と伝承されている。
寺の境域は八幡太郎の弟・新羅三郎義光(常陸介)の居館跡といい後裔の佐竹秀義以来、佐竹一族が住居した
ことに因む呼称という。
   碑文は「佐竹四郎秀義」とあるが、佐竹秀義は隆義の二男であり、父の隆義の呼称が「四郎」と呼ばれていた。
   佐竹隆義と秀義が混同しているように思われる。                      「佐竹氏略系図」参照。

 ※ 『相模風土記』によると…
  …「土人の伝に此地は佐竹常陸介 秀義 以後、数世居住の地にて、今猶当地を佐竹屋鋪と字する。
  此故なりという」…

 ※ 『鎌倉大草紙』によると…
  …「室町期にもこの附近に佐竹氏の居宅があったようである。…
   ∴宝暦9年(1759年)の「大宝寺境内図」に「名越佐竹屋鋪」。 ∴寛政8年(1796年)の鐘銘に「名越佐竹屋鋪多福山大宝」とある。

【 佐竹家の紋所ついて 】

谷は五本骨の扇形で、これより佐竹家の紋所が生じたと云われている。
奥州征伐の折、頼朝から「月出の扇子」旗紋を与えられた。 と「吾妻鏡」に記されている。     「吾妻鏡記事」参照。
 ⇒ 後述の「人物紹介」(佐竹秀義)の後段を参照。        

【人物紹介】

佐竹隆義 ( さたけ たかよし )
     1118〜1183(元永元年〜寿永2年 推定)

 平安末期の武将。新羅三郎源 義光の曾孫。初名は詮義。
 字は四郎。父は佐竹冠者昌義。
 奥州藤原氏とも婚姻関係を結び、常陸国奥七郡を領したという。
 源氏の傍流であるが、保元・平治の乱及び治承・寿永の内乱
 では平家方に属した。
 治承4年(1180年)に平 清盛の執奏により五位に叙される。
 寿永2年(1183年)、65歳で没した。



佐竹秀義 ( さたけ ひでよし )
     1151〜1225(仁平元年〜嘉禄元年)

 隆義の二男だか鎌倉幕府の御家人。 佐竹別当。
 治承4年(1180年)8月、頼朝は伊豆で挙兵、関東一円を席捲し、
 平家を追って上洛戦を図ったが、広常・常胤に佐竹討伐を説かれ
 この時、頼朝に背をむけた、叔父の義政が常陸金砂氏城で誘殺。
 佐竹党は一時的に全滅に等しかった。
 秀義は奥州に逃れが、一族の所領は没収された。

 その後、同族で争う時でないと、頼朝に帰順する。
 平家滅亡後の、文治5年(1189年)の奥州征伐にか、源氏の白旗
 を掲げて参戦している。

  (「月出の扇子」旗紋 の故事は、この時の事である。)

 下野宇都宮において頼朝軍に参加した時、
  
(隆義と伝えられているが、隆義の死亡が1183年と言われており
  奥州征伐は1189年なのでこのとき参戦したのは秀義ではないだろうか)


 秀義の掲げていた無文白地の旗が頼朝のものと同じであるので、、
 あるので、頼朝に咎められたのである。
 源氏嫡流の旗と区別するために、旗の上に月を描いた扇を入れ
 させられた。
 以降、これが 代々、佐竹家の旗印となっている。
           ⇒ 「吾妻鏡」記録 を参照して下さい。


【 佐竹家の紋所ついて  (続き)】

佐竹氏のその後の推移


鎌倉時代の佐竹氏の活躍はあまりみられない。
鎌倉幕府滅亡後、佐竹貞義・義篤は足利氏に随って各地の戦を経験し、常陸守護に任ぜられた。

佐竹貞義(上総入道);
常陸守護在職期間 建武3年(1336)〜観応2年(1351)
佐竹義篤(刑部大輔);
常陸守護在職期間 文和元年(1352)〜貞治元年(1362)
佐竹義宣(伊予守);
常陸守護在職期間 貞治元年(1362)〜康応元年(1389)

石田三成を通じ豊臣秀吉に従う。 近年、大阪城「三の丸」跡から佐竹義宣屋敷跡遺構がみつかる。

明治17年(1884年)、佐竹義堯は、候爵となる。


    「佐竹氏屋敷跡遺構・「扇に月丸紋」発見の新聞記事」     《平成3年2月15日 日本経済新聞》