この処は、「佐竹四郎秀義」 以来 代々佐竹の屋敷跡である と言う。 昔 ここに 佐竹氏 の霊社があったが、後年になって、村内の天王社に合祀した。 後ろの山を 佐竹山 と呼んでいて、その形が扇の地紙に似ている。 中に三本の畴があって、左右あわせると五本骨の扇の形に見える。 昭和七年三月 建 鎌 倉 町 青 年 団 |
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1118〜1183(元永元年〜寿永2年 推定) 平安末期の武将。新羅三郎源 義光の曾孫。初名は詮義。 字は四郎。父は佐竹冠者昌義。 奥州藤原氏とも婚姻関係を結び、常陸国奥七郡を領したという。 源氏の傍流であるが、保元・平治の乱及び治承・寿永の内乱 では平家方に属した。 治承4年(1180年)に平 清盛の執奏により五位に叙される。 寿永2年(1183年)、65歳で没した。 1151〜1225(仁平元年〜嘉禄元年) 隆義の二男だか鎌倉幕府の御家人。 佐竹別当。 治承4年(1180年)8月、頼朝は伊豆で挙兵、関東一円を席捲し、 平家を追って上洛戦を図ったが、広常・常胤に佐竹討伐を説かれ この時、頼朝に背をむけた、叔父の義政が常陸金砂氏城で誘殺。 佐竹党は一時的に全滅に等しかった。 秀義は奥州に逃れが、一族の所領は没収された。 その後、同族で争う時でないと、頼朝に帰順する。 平家滅亡後の、文治5年(1189年)の奥州征伐にか、源氏の白旗 を掲げて参戦している。 (「月出の扇子」旗紋 の故事は、この時の事である。) 下野宇都宮において頼朝軍に参加した時、 奥州征伐は1189年なのでこのとき参戦したのは秀義ではないだろうか) 秀義の掲げていた無文白地の旗が頼朝のものと同じであるので、、 あるので、頼朝に咎められたのである。 源氏嫡流の旗と区別するために、旗の上に月を描いた扇を入れ させられた。 以降、これが 代々、佐竹家の旗印となっている。 ⇒ 「吾妻鏡」記録 を参照して下さい。 |
鎌倉時代の佐竹氏の活躍はあまりみられない。 鎌倉幕府滅亡後、佐竹貞義・義篤は足利氏に随って各地の戦を経験し、常陸守護に任ぜられた。 佐竹貞義(上総入道); 佐竹義篤(刑部大輔); 佐竹義宣(伊予守); 石田三成を通じ豊臣秀吉に従う。 近年、大阪城「三の丸」跡から佐竹義宣屋敷跡遺構がみつかる。 明治17年(1884年)、佐竹義堯は、候爵となる。 |
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