桑ケ谷療養所跡 (kuwagaya-ryooyojou-ato)の石碑文の説明


☆ 桑ケ谷療養所跡の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

  今を遡ること 七百年の昔、永仁年間 (1293〜1299年)、鎌倉幕府の執権であった 北条時宗公 が、
  極楽寺の僧である 「良観房忍性上人」 に命じて、貧民救済の目的とした 療養所 を設けたのは、
  この桑が谷戸であったと言う。

   また 文永年間(1264年〜1275年)に大旱魃(かんばつ)による飢饉の時、粥の炊き出しをしたのも
  此の地であったと言う。

   その後、歳月は過ぎ 人は代わって、今は当時を語る跡形もなくなってしまった。
  ただ 此の地に立って、静かに偉人の善行を振り返ってみると、松風と共に教えられるもので
  ここに桑谷の歴史を伝え、当時を偲ぶよすがとしたい。

   極楽寺の縁起によると…
  「凶年には飢えた人を、深沢が谷に集めて、粥を施して救った」 とか
  「北条時宗は、上人を招待して教えを受けた折、上人は、時宗に病人を労わることは、
  仏門の最良の業である と語ったので、時宗は深く心に感じ、桑ガ谷に療養所を設置し、
  国中の病人を集めて治療した。」 とあるのが、そのあかしとなるであろう。


        昭和三十七年三月

                                  長谷上町文化会


 【 裏 面 】    かって此の処に居られた鎌倉彫の名家 後藤弘慶氏の遺族から、町内へ記念品贈答の申し出が
            あったので、之を建ててその厚志に沿うことにした。

           昭和三十七年 参月

                                   長谷上町文化会


【人物紹介】

良観房忍性菩薩 (りようかんぼう にんしょう)  1217年〜1303年 (建保五年〜嘉元元年)

  鎌倉時代の高僧で、奈良県磯城郡三宅町(大和国城下郡屏風里)に生まれました。
  宇は良観、諡号は忍性菩薩、伴貞行の子。
  十一歳で出家、二十三歳で叡尊に師事しました。
  西大寺中興の祖・真言律宗宗祖興正菩薩叡尊(1201〜1290)の
  高弟として、師とともに戒律の布教に努めました。
   建長四年(1252)関東に下向し、弘長元年(1261)に鎌倉にきました。
  文永4年(1267) 51歳の時に極楽律寺開山に迎えられました。
  鎌倉で忍性は、伽藍の整備や布教の傍ら療病所建設や施粥などの救民のための
  慈善救済事業や道路修築、架橋などの土木事業を推し進めました
   嘉元元年(1303)八十七歳にて鎌倉極楽寺で示寂しました。
   遺命により極楽寺・竹林寺・額安寺に分葬されました。
   嘉暦3年(1328)5月に御醍醐天皇より「忍性菩薩」と菩薩号を勅許されました。

 ⇒ 良観房忍性菩薩業績については、 《良観房忍性菩薩の略年譜》 をご覧下さい。





【桑ケ谷の所在地について】

 「桑ケ谷」は、現在の「長谷三丁目辺り」・長谷寺の北に隣接する小さな谷を云う。


【『桑ケ谷問答』の行われた場所】

 建治3年(1277)極楽寺の忍性の弟子・僧竜像坊が昼夜法を講じて居た所、

 日蓮の弟子・日真が法治を挑んだ坊所『大仏殿門西桑谷』は此処の場所であった。



【桑ケ谷療養所の医院長・梶原性全について】


 忍性に招かれて梶原性全は、桑ケ谷療病所の医院長を勤めた。


 梶原性全の略歴年譜


 梶原性全は文永3年(1266年)神奈川県寒川町一宮・岡田で生まれる。梶原景時の末裔。

 母一人に育てられ、母の命で奈良・西大寺の叡尊について僧となる。叡尊の貧民救済・社会事業的精神を

 受け、医療を志し、京都で日本古来の医療法・和気・丹波両家医学を学ぶ。・・・後に

 忍性の招きで鎌倉に戻り、施療養所で医療に励む。


 永仁6年(1298年)、日本最古の「かな混じり」の「医書」である『頓医抄』を著す。

 ・・・追補改訂を加えて嘉元2年(1304年)に全50巻を完成する。・・・

 この内、「巻43・巻44」は『聖恵方』を参照に、金沢文庫の15代執権・金沢貞顕の庇護のもと龍ノ口刑場

 で処刑された刑死者を実際に解剖して製作された「人体解剖図」は杉田玄白の「解体新書」に先かけるこ

 と470年前に著したもので、日本最初の西洋医学翻訳書としたの業績は頗る高く評価されている。

 さらに10年後の正和4年(1315年)には『覆載万安方(62巻)』を著した。

 

 建武4年(1337年)正月22日、桑ケ谷施療養所で没した。 72歳。

 墓は鎌倉市笛田の佛行寺にある。