【 U 】 阿仏尼の死・墓所
阿仏尼は、弘安6年4月8日(4月6日という説もある)に裁判の結果を見ず没した。
阿仏尼の墓とされている石塔は
@ 鎌倉・英勝寺の近く と
A 京都・大通寺にある。
@
鎌倉市英勝寺の近くの供養塔
英勝寺の前の道を150m北へ進むと左側の石窟の中に阿仏尼の五層塔がある。
A
京都市大通寺
東寺に近く、大宮通九条下ル東側・大通寺境内にある。
大通寺はかっては遍照心院といい、西八条にあったが、明治に現在地に(阿仏尼墓も同時に)移転した。
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鎌倉市英勝寺の供養塔(平成1年6月25日撮影) |
京都市大通寺境内の墓 |
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【 V 】 阿仏尼の子・為相の鎌倉生活
- 為家没後の御子左家
- 為家の没後、御子左家は三家(二条家(為氏)・京極家(為教)・冷泉家(為相))に分裂した。
- 鎌倉時代後半、宮廷は大覚持統と持明院統に分裂し、二条家は大覚持統に、京極家持明院統に結びつき熾烈に対抗した。
- 冷泉家は初め京極家と結んでいたが、為相は母阿仏尼の鎌倉下向の後、鎌倉に活動拠点を移した。
- 二条家と京極家は断絶していまい、冷泉家は室町時代(応永23年(1416)に上冷泉家と下冷泉家に分かれた。
- 鎌倉での為相は、藤ケ谷(扇ケ谷=亀ケ谷)に邸宅をかまえ、和歌の指導者として活躍した。
- 為相は藤ケ谷に邸があったことから「藤が谷殿」と称された。
- 藤原(冷泉)為相について
- 「藤谷黄門遺跡」(「藤原為相邸址」)のぺーじを参照して下さい。
「藤谷黄門遺跡」
【 W 】 現在・冷泉貴実子の談
- 財団法人「冷泉家時雨亭文庫」設立
- 昭和56年(1981年)に財団法人「冷泉家時雨亭文庫」が設立された。
- 阿仏尼の願い通り、冷泉家に伝わった典籍類を今、私たちは見る事が出来る。
- 冷泉貴美子氏談 《^平成19年(2007年)4月22日日本経済新聞掲載》
- 「阿仏さんのおかげで、為相さんは所領を相続できたわけです。阿仏さんががんばったから、冷泉家が
- 生まれ、定家さん自筆の『明月記』をはじめ現在私たちが守っている文書も残ったと言えます」
- 京都御所に近い公家屋敷で育つた冷泉貴美子さんはもう一言加えた。
- 「この家は代々、女性の地位がたかいんです。それも阿仏さんのおかげかしら」。
- 気さくな現代の「女あるじ」の笑顔から、阿仏の面影がちょっぴり透けて見えた。《牧内岩夫 編集委員著》