阿佛・訴 訟 の 経 緯

    【 T 】 訴訟について

  1. 訴訟の要因

  2. 「細川荘」の相続をめぐっての訴訟 … 。

    播磨国「細川荘」・近江国「吉富荘」・播磨国「越部荘」は御子左家の重要な荘園であった。


    播磨国「細川荘」…兵庫県三木市細川町一帯で、加古川の支流である美嚢川流域の地で、下冷泉家の藤原惺窩の生誕地である。

    美嚢川河川の小高い岡の上にの下冷泉家の屋敷跡の地が残っている、

    11月に惺窩祭が行われる。下冷泉家の菩提寺大雄寺がある。

    俊成以来領家職を冷泉家か領有し、健御前(定家姉)を経て定家に相続された。

    定家の代に実朝から地頭職を得、この二つを定家の子・為家が相続した。

    近江国「吉富荘」(小野荘ともいう)…小野は滋賀県彦根市小野町辺りで、現在の彦根駅の北、近江鉄道の鳥居本駅の南に位置する。

    平安時代から鎌倉・室町時代まで、宿駅として栄えた。預所職は定家から為家へ譲られた。


    為家は家領の最も重要な「吉富荘」を嫡男為氏に生前贈与した。後に不孝を理由に為氏から取り返し、

    改めて為相に与える旨の「 悔 返 状 」を書いたが、為氏はこの荘園を取り上げられては生きていけない、

    代わりに細川荘を返すと懇願したので、吉富荘の取り上げを勘弁し代わりに細川荘を為氏から

    取り上げ、細川荘を為相に与える「 譲 状 」を書いた。

    しかし為家の死後に、為氏は細川荘をそのまま領有したので、訴訟に至った。


    藤  原  為  家  自  筆  譲  状 

    [文永10年7月24日付け、為氏から細川荘を悔い返して為相に与え、かつ「明月記」を為相に与えると

    記した譲状の最後の一紙]


  3. 経  緯

  4. 阿仏尼はこの訴訟で為家嫡男(先妻の子)為氏と争い、実のわが子為相の相続権(細川荘の地頭職)を得よう

    としたが、阿仏尼の目的は、細川荘の地頭職を得る事と同時に、為家の遺志をうけて、為相を歌道家(冷泉家)
    の当主の位置の確立にあつたと言われる。


    為家の死後、為氏は公家の法を根拠に細川荘を渡すのを拒んだ、阿仏尼は「悔い返し」を認める武家の法に

    よる鎌倉幕府(北條時宗)への提訴を決意し、鎌倉に下向した。


    京  都  か  鎌  倉  へ  の  旅  程 

    [阿仏尼は、弘安2年(1279年)10月16日に京都を出発し、同月29日に、鎌倉に到着した。14日間の東海道の旅であつた。




  5. 訴訟の結果

  6. 鎌倉での訴訟は、阿仏尼が在世中には決着しなかった。訴訟は為相に引継がれた。

    相訴訟相手の為氏も鎌倉に下向したことがあり、鎌倉で没した。  《『沙石集しゃせきしゅう』》

    為氏側はその子・為世ためよに引き継がれた・

    訴訟は阿仏尼が鎌倉に下向してから34年後の正和2年(1313年)に、為相側の勝訴で決着した。


    【 U 】 阿仏尼の死・墓所

    阿仏尼は、弘安6年4月8日(4月6日という説もある)に裁判の結果を見ず没した。
    阿仏尼の墓とされている石塔は@ 鎌倉・英勝寺の近く と A 京都・大通寺にある。

    @ 鎌倉市英勝寺の近くの供養塔
    英勝寺の前の道を150m北へ進むと左側の石窟の中に阿仏尼の五層塔がある。


    A 京都市大通寺
    東寺に近く、大宮通九条下ル東側・大通寺境内にある。

    大通寺はかっては遍照心院といい、西八条にあったが、明治に現在地に(阿仏尼墓も同時に)移転した。

鎌倉市英勝寺の供養塔(平成1年6月25日撮影) 京都市大通寺境内の墓

    【 V 】 阿仏尼の子・為相の鎌倉生活

  1. 為家没後の御子左家

  2. 為家の没後、御子左家は三家(二条家(為氏)・京極家(為教)・冷泉家(為相))に分裂した。

    鎌倉時代後半、宮廷は大覚持統と持明院統に分裂し、二条家は大覚持統に、京極家持明院統に結びつき熾烈に対抗した。

    冷泉家は初め京極家と結んでいたが、為相は母阿仏尼の鎌倉下向の後、鎌倉に活動拠点を移した。

    二条家と京極家は断絶していまい、冷泉家は室町時代(応永23年(1416)に上冷泉家と下冷泉家に分かれた。

    鎌倉での為相は、藤ケ谷(扇ケ谷=亀ケ谷)に邸宅をかまえ、和歌の指導者として活躍した。

    為相は藤ケ谷に邸があったことから「藤が谷殿」と称された。


  3. 藤原(冷泉)為相について

  4. 「藤谷黄門遺跡」(「藤原為相邸址」)のぺーじを参照して下さい。

     
    「藤谷黄門遺跡」

    【 W 】 現在・冷泉貴実子の談

  1. 財団法人「冷泉家時雨亭文庫」設立

  2. 昭和56年(1981年)に財団法人「冷泉家時雨亭文庫」が設立された。

    阿仏尼の願い通り、冷泉家に伝わった典籍類を今、私たちは見る事が出来る。


  3. 冷泉貴美子氏談  《^平成19年(2007年)4月22日日本経済新聞掲載》

  4. 「阿仏さんのおかげで、為相さんは所領を相続できたわけです。阿仏さんががんばったから、冷泉家が

    生まれ、定家さん自筆の『明月記』をはじめ現在私たちが守っている文書も残ったと言えます」

    京都御所に近い公家屋敷で育つた冷泉貴美子さんはもう一言加えた。

    「この家は代々、女性の地位がたかいんです。それも阿仏さんのおかげかしら」。

    気さくな現代の「女あるじ」の笑顔から、阿仏の面影がちょっぴり透けて見えた。《牧内岩夫 編集委員著》