『吾妻鏡』における 畠山重保邸跡 (hatakeyama-shigeyasu-tei-ato) の記述
畠山重保邸跡に関係する『吾妻鏡』における記述は・・・
《 元久2年(1205年)6月22日 戌申 の条 》
快晴。 寅の尅、
鎌倉中
驚遽
きゃうきょ
し、軍兵油比の濱に
競
きそ
ひ走る。
謀叛の輩を
誅
ちゅう
せらるべしと云々。
これによって畠山六郎重保、郎従三人を具してその所に向ふの間、三浦平六兵衛尉義村仰せを
奉
うけたまは
り、
佐久間太郎等をもって重保を相圍むところ、雌雄を
諍
あらそ
ふといえども、多勢を破るに能はず、
主従共に
誅
ちゅう
せらると云々。・・・以下省略・・・
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