畠山重保邸跡 (hatakeyama-shigeyasu-tei-ato)の石碑文の説明


☆ 畠山重保邸跡の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   畠山重保 は重忠の長男である。
  かつて、北条時政 の婿むこである。 平賀 朝雅 と争いをしたことがあった。
  朝雅は其の怨みを蓄え、忘れることが出来ず、北条時政 に重忠父子を讒言ざんけんした。

  時政 も畠山重忠 が頼朝 亡くなってから頼朝の遺言で 頼家 を後見している姿態を、見るにつけ
  快く思っていなかったので、重忠の失脚の機会をねらつていた。

  そこで、時政 は、源 実朝 の命である として、兵を向けて重保の邸宅を囲ませた。
  重保は奮戦したが、およばず 此処で戦死した。 時に元久二年(1205年)六月二十二日のことであった。

  此の地はその畠山重保 の邸宅の跡である。

  その翌日、重保の父 畠山重忠 もまた偽りの誘いを受けて、横浜市(武蔵国)の二俣川で応戦し闘死した。

          大正十一年三月 建
                                     鎌 倉 町 青 年 団




【人物紹介】

畠山重保 (はたけやま しげやす)
     ?年  〜1205年(  ? 〜元久二年)

畠山重忠の長男で六郎重保と称した。

元久2年(1205年)十月、源 実朝の御台所を迎えるために、

京都に上った。

この時 京都にいた 平賀朝雅 (北条時政の後妻 牧ノ方の娘

婿)の邸宅での酒宴の席上、朝雅と口論になる事件があった。

謀反の疑いをかけられ、同年6月、由比ガ浜で謀殺された。

同日、父重忠も二俣川で鎌倉からの大軍と戦い、敗死している。




【由比ガ浜明徳四年銘塔 (通称 畠山重保墓)について】
由比ガ浜明徳四年銘塔 (通称 畠山重保墓)について
   年 代 ; 明徳4年(1393・室町時代)     材 質  ; 安山岩製

   寸 法 ; 総高345.5cm     


   基台の側面に次の銘文を刻む

    『明徳第四」発酉霜月三」日大願主」比丘道友』

   《昭和8年 重要美術品指定》

   所在地及び所有者 ; 由比ガ浜2丁目1089番地 神奈川県管理

由比ガ浜明徳四年銘塔 (通称 畠山重保墓)
【由比ガ浜明徳四年銘塔】は 出展;「鎌倉の文化財・第五集」による
 ⇒ 《畠山重忠・略年譜》  をご覧下さい。
 ⇒ 《畠山氏と関係のある者の略系図》  をご覧下さい。


畠山重保邸並びに居館について

 畠山重保の屋敷跡と称するが、鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)の西側にあると  《『新編鎌倉志』》、
  言われているが。  ↓以下を参照   



   
しかし《⇒『吾妻鏡』の「元久2年6月22日の条」(参照)の文面からは由比ガ浜のこの辺りに畠山重保のやしき
   
があったという明証にはならない ?。

   
畠山重保の墓と伝える宝篋印塔は明徳4年(1392年)・重保没後100年余後に比丘道友という方が建立して

   
いるが、重保との関係、重保のやしきとの関係は不明である。


 横浜市戸塚区汲沢町附近にも居館があつたと言われている。




畠山重保墓・「六郎さん」と呼ばれている



閲兵式の写真

畠山重保の明徳四年銘塔は「六郎様」と

よばれ、 咳で苦しむ人達が願をかけると


「咳の病気が治る」と言い伝えられた

民俗がある。


参詣者が竹筒に茶を注いで供えたといいます。


宝篋印塔の横に「六郎茶屋」があったという。

今はそこに、石碑が建っている。。


 ◇ 重保は喘息を持っていたといわれてします。




 《明徳四年銘塔の横に建つ茶屋の石碑》 →