畠山重保 は重忠の長男である。 かつて、北条時政 の婿である。 平賀 朝雅 と争いをしたことがあった。 朝雅は其の怨みを蓄え、忘れることが出来ず、北条時政 に重忠父子を讒言した。 時政 も畠山重忠 が頼朝 亡くなってから頼朝の遺言で 頼家 を後見している姿態を、見るにつけ 快く思っていなかったので、重忠の失脚の機会をねらつていた。 そこで、時政 は、源 実朝 の命である として、兵を向けて重保の邸宅を囲ませた。 重保は奮戦したが、およばず 此処で戦死した。 時に元久二年(1205年)六月二十二日のことであった。 此の地はその畠山重保 の邸宅の跡である。 その翌日、重保の父 畠山重忠 もまた偽りの誘いを受けて、横浜市(武蔵国)の二俣川で応戦し闘死した。 大正十一年三月 建 鎌 倉 町 青 年 団 |
?年 〜1205年( ? 〜元久二年) |
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【由比ガ浜明徳四年銘塔】は 出展;「鎌倉の文化財・第五集」による |