「源平池」は寿永元年(1182年)4月、源 頼朝の命により、 専光坊と 大庭平太景義が工事の責任者として、 鶴岡八幡宮境内に池を掘ったと言う事が「東鑑」(吾妻鏡)に記されている。 ⇒《吾妻鏡の記録》 をご参考下さい。 一説には、頼朝の夫人北条政子が、源家の興隆を祈願して此の池を造らせ、東側の池には、「白蓮」を植え 西側の池には、「紅蓮」を植えて、源平の旗を夫々表現したと伝えられている。 この池を「源平池」と言うのは、このことから出たと伝えられている。 昭和十二年三月建 鎌 倉 町 青 年 団 |
かっては木造・朱塗りの赤橋とよばれた。 鎌倉幕府 末の頃、此の赤橋の近くに居住していた、北条守時・英時兄弟は、『赤橋」と名乗っていた。 ⇒《源平池の歴史》 をご参考下さい。 |
懐島権守景義ともいう。 桓武平氏。大庭御厨を開いた鎌倉権五郎景正を祖とし、大庭庄司景房の子、 懐島(現茅ヶ崎市円蔵付近の相模川左岸一帯)を領したことから懐島景義ともいい、 相模国の有力御家人の一人である。 保元の乱(1156)には弟大庭景親 と共に義朝 に従い、 鎮西八郎為朝と戦う。 治承四年の頼朝挙兵には当初から参加し功があった。 |
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奥州藤原氏追討の際、院宣が得られないことで発向を躊躇する頼朝を 「軍中は将軍の令を聞き、天子の招を聞かず」と述べて決断を迫り、発進に踏み切らせた。 建久六年(1195)の東大寺再建供養の日、 北条義時 ・ 小山朝光 とともに征夷大将軍の牛車の直前の進行を 許されるなど幕府草創期の長老として厚く遇されている。 承元四年(1210)没。 その三年後の建保元年(1213)大庭氏は和田合戦に連座して滅亡した。 |
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【人物紹介】は 出展;「鎌倉御家人人名事典」(吾妻鏡を読む会)による |
専光房は伊豆国走湯山住侶である。 治承4年(1180)10月、鎌倉に入った頼朝は鶴岡八幡宮を小林卿に遷し、 臨時の別当に伊豆時代から師檀である専光房を迎えた。 翌年正月頼朝は朔旦を奉幣の日と定め参拝、ときに専光房が奉仕した。 鶴岡八幡宮造池の奉行のほかにも頼朝亡母の仏事、頼家誕生時の験者、南御堂への、 義朝納骨の相談やそれに関する沙汰など重要な役を果たす。 |
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さらに進発の20日後、正観音を安置するために専光房一人、御亭のうしろの山に登り梵宇を草創するよう命じた。 専光房はよくそれを成し遂げた。。 建久3年(1192)熊谷直実と久下直光が午前対決を遂げたとき、直実は途中で忿怒し剃髪逐電した。 走湯山にいた専光房は京都をめざす直実を留め、法門を談じ遁世逐電を諌め、頼朝に報告した。 専光房は頼朝の宗教的精神的な面にかかわった人物の一人といえよう。 |
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【人物紹介】は 出展;「鎌倉御家人人名事典」(吾妻鏡を読む会)による |