畠 山 重 忠 邸 跡 (hatakeyama-shigetada-tei-ato) の石碑文の説明


☆ 畠 山 重 忠 邸 跡の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・


   正治元年(1199年) 五月、此の年の正月に亡くなった頼朝と政子との間に次女として生まれた「三幡姫」が病気
  となり。その治療の為に 当時の名医「丹波時長」という者が、京都から鎌倉に来ました。
    此の事について東鑑 (吾妻鏡)に、次のように記されています。
  
  『正治元年五月七日(1199年)、丹波時長が、掃部頭(かもんのかみ)中原親能の亀が谷の家から、
  畠山次郎重忠の南御門の家に移った。これは、三幡姫の極く近い所に居て、姫の病気治療にあたるための
  転居である。』
 ⇒ 《 「東鑑 (吾妻鏡)にみる」 三 幡 (乙姫) の 生 涯 》  をご覧下さい。】

  此の石碑のある辺りの地が、吾妻鏡のいう南御門の宅のあった地である。


          大正十二年三月
                                         鎌 倉 町 青 年 団 建



【人物紹介】


畠 山 重 忠  (はたけやま しげただ)      1164年〜1205年 (長寛に年〜元久二年)

鎌倉前期の武将。 桓武平氏。 村岡良文の子孫。本領は武蔵国は畠山庄。
父は畠山重能。母は三浦義明。  幼名 氏王丸 のち荘司次郎と称す。
 重忠ははじめ足立遠元の娘を娶り、小次郎重秀が生まれたがのち、
 北条時政の娘との間に子息 《 畠山重保 》  (「畠山重保邸址」参照) がいた。


【人物紹介】
丹 波 時 長  (たんば ときなが)      生没年不詳 (0000〜0000)

鎌倉中期の医師。父は長基。針博士・典薬頭などを歴任。
当時名医の聞こえが高く、正治元年(1199年)三月、源 頼朝の次女乙姫が重病の際、
幕府からその治療の為鎌倉に下向することを再三求められるが固辞。
のち院宣によってようやく下向し治療にあたった。

承久元年(1219年)、将軍 源 実朝 が暗殺され、 九条頼経 が後継者として
鎌倉に迎えられると、その侍医として下向した。
【人物紹介】は 出展;「鎌倉武家事典」(出雲隆編参照)による