阿佛邸旧跡 (abumi-tei-kiuseki)の石碑文の説明


 ☆ 阿佛邸旧跡の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   阿佛は、 藤原定家 の子・為家 の妻であって、和歌の師範家である 冷泉家の祖である
   為相ためすけの母である。

                「御子左家略系図」ページ を参照して下さい 

   為相の異母兄にあたる為氏が、為相の和歌所の所領である播磨国【「播摩」は「播磨」の誤り】(兵庫県)の
   細川の庄を横領したので、 阿仏 は此の事を 執権 北条時宗 に訴えてその裁決を願った

                「 訴 訟 の 経 緯 」ページ を参照して下さい 

   其の為に、阿仏 は建治三年(1277年)、京都を旅立ち東へと下り、鎌倉の「月影ガ谷」の地に居住した。
   その折の日記を 十六夜日記いざよい にっき と言って世間に知られている。

阿仏ば住んだ「月影ガ谷」について 「 十六夜日記」ページ を参照して下さい 

   この細川の庄の領土の係争は、長年に亘ったが、裁決が下りないまま、
   阿仏 は弘安四年(1281年)にこの月影ガ谷において亡くなった。

         大正九年三月 建之
                                 鎌 倉 町 青 年 会



【人物紹介】
阿仏尼 (あぶつに) (1222〜1226年)?〜1283( (貞応元年〜嘉禄2年)?〜弘安六年)

鎌倉時代中期の歌人。平 度繁 の養女。実父母は不詳。藤原為家の室。
(建長5年(1253)為家の弟子の存在…阿仏30前後・為家56歳)に恋愛関係に発展する)

安嘉門院あんかもんいんに仕え、四条又右衛門佐、のちに安嘉門院四条とも呼ばれた。
和歌をよくし、『続古今和歌集』以下の勅撰集に四十八首収載されてる。
為家との間に定覚じょうかく為相ためすけ為守ためもりを生み、建治元年(1275)、為家の没後に
出家して阿仏尼 または北林禅尼と号した。
為家が為相の異母兄 為氏に譲った家領播磨細川庄や和歌文書などを悔返くいかえし
して為相に譲与させたが、為家の死後、それらをめぐっての為氏との紛争
のため朝廷や幕府に訴えた。

弘安二年(1279)、細川庄に関する訴訟のために鎌倉に下向、
  関東の十社に勝訴祈願の百種和歌を奉納するが、訴訟の判決をみないまま、弘安六年四月六日に没した。

【 奉 納 和 歌 千 首 】

『安嘉門院四条 五百首』 … 「今熊野の百首」(弘安3年(1280))、 「えがらの宮の百首」(弘安3年(1280))、

   新加茂の社の百首」(弘安4年(1281))、「新日吉の社の百首」(同年)、「鹿島の社たてまつるの百首」(同年)、

『鎌倉下向の途次に奉納 三百首』 … 「三嶋社百首」(弘安2年(1279))、「走湯山百首」(同年)、「箱根宮百首」(同年)、

『鎌倉に着いて奉納 二百首』 … 「若宮百首」(弘安2年(1279))、「稲荷社百首」(弘安3年(1280))

以上10社に各百首を奉納した計千首である。


没した場所は不明(鎌倉と推定するが記録はない)。京都西八条「大通寺」に墓、鎌倉「英勝寺」に供養等がある。

作品には、弘安二年 東下の際の旅行記または鎌倉滞在記である『十六夜日記』、そのほか『転寝記』
『夜の鶴』などあり、和歌八百首を残す。
【人物紹介】は 出展;「鎌倉・室町人名事典」(安田元久著)による