阿佛は、 藤原定家 の子・為家 の妻であって、和歌の師範家である 冷泉家の祖である 為相の母である。
⇒「御子左家略系図」ページ を参照して下さい
為相の異母兄にあたる為氏が、為相の和歌所の所領である播磨国【「播摩」は「播磨」の誤り】(兵庫県)の 細川の庄を横領したので、 阿仏 は此の事を 執権 北条時宗 に訴えてその裁決を願った
⇒「 訴 訟 の 経 緯 」ページ を参照して下さい
其の為に、阿仏 は建治三年(1277年)、京都を旅立ち東へと下り、鎌倉の「月影ガ谷」の地に居住した。 その折の日記を 『十六夜日記』 と言って世間に知られている。
阿仏ば住んだ「月影ガ谷」について
⇒「 十六夜日記」ページ を参照して下さい
この細川の庄の領土の係争は、長年に亘ったが、裁決が下りないまま、 阿仏 は弘安四年(1281年)にこの月影ガ谷において亡くなった。 大正九年三月 建之 鎌 倉 町 青 年 会 |
鎌倉時代中期の歌人。平 度繁 の養女。実父母は不詳。藤原為家の室。 (建長5年(1253)為家の弟子の存在…阿仏30前後・為家56歳)に恋愛関係に発展する) 安嘉門院に仕え、四条又右衛門佐、のちに安嘉門院四条とも呼ばれた。 和歌をよくし、『続古今和歌集』以下の勅撰集に四十八首収載されてる。 為家との間に定覚・為相・為守を生み、建治元年(1275)、為家の没後に 出家して阿仏尼 または北林禅尼と号した。 為家が為相の異母兄 為氏に譲った家領播磨細川庄や和歌文書などを悔返 して為相に譲与させたが、為家の死後、それらをめぐっての為氏との紛争 のため朝廷や幕府に訴えた。 |
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関東の十社に勝訴祈願の百種和歌を奉納するが、訴訟の判決をみないまま、弘安六年四月六日に没した。 没した場所は不明(鎌倉と推定するが記録はない)。京都西八条「大通寺」に墓、鎌倉「英勝寺」に供養等がある。 作品には、弘安二年 東下の際の旅行記または鎌倉滞在記である『十六夜日記』、そのほか『転寝記』 『夜の鶴』などあり、和歌八百首を残す。 |
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【人物紹介】は 出展;「鎌倉・室町人名事典」(安田元久著)による |