大倉幕府旧蹟 (ookura-bakufu-kiuseki) の石碑文の説明

☆ 大倉幕府旧蹟の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・


  「大倉幕府旧蹟」は今から737年  (この碑が建立した大正6年から数えて737年、平成21年の現在から829年前) の昔、
 治承4年(1180年)に源 頼朝が邸宅を造り、その後 天下の政権をにぎるようになってからは、
 此の邸宅に於いて、頼朝は日本最初の武家による政治を行った場所である。
 一般に『大倉幕府』とはこの辺りが大倉の地と呼ばれていたことから、そのように呼ばれたのである。
 以来、源 頼朝、二代将軍 源 頼家、三代将軍 源 実朝 を経て、嘉禄元年(1225年)北条政子が亡くなり、
 幕府が「宇津宮辻子」の地に移るまで、この間、46年間に渡り、此の地が天下の政治の中心となっていたのである。
  北条政子の死後、幕府は「宇津宮辻子」に移されました。

         大正六年三月建之
                                      鎌倉町青年団


大倉の幕府は里俗に頼朝屋敷し云われ、その遺跡は大倉町の北にあたり方数町の地である。
   遺跡の北は頼朝の法華堂に接し、艮の方には荏柄天神社がある。
   また四面に門を設け、その方位を以て之を称し、又門外の地名も東御門・西御門・南御門と云う。

【鎌倉時代の幕府所在地の変遷】

 源 頼朝が 鎌倉に幕府を開いて以来、
 北条氏の滅亡に至るまでに、
 幕府は三度移転しました。
「 大 倉 幕 府 」
1180年〜1225年
(46年間)
「宇津宮辻子幕府」
1225年〜1236年
(11年間)
「若宮大路幕府」
1236年〜1333年
(97年間)
【鎌倉時代の幕府所在地の変遷】の出展;「大倉幕府北遺跡発掘調査報告書」(神奈川県・鎌倉市)による

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